名島神社と名島城
名島城はもと大友氏の根據地で、立花城の出城でした。
天正十五年(一五八七)豊臣秀吉公が島津氏を降して九州を平定し、小早川隆景公を筑前の国守に任じ、この城を増強すると共に御座所を設けさせ、九州監察の中心としました。
自ら場所を選び、城の配置を決め、城の要所を設計したと言われています。文禄の役の折には、肥前名護屋へ西下の途中淀君らとこの城に立ち寄り宿泊しています。
城は桃山文化の粋を集めた絢爛豪華な水城でした。隆景公父子は十三年間この城に在り、慶長五年(一六〇〇) に黒田長政公と代わられました。長政公はこの地が狭隆なため、福岡に福岡城を築いてここに移りましたが、その際に名島城を解体して残らず福岡城に運びました。
この間、小早川隆景公、黒田長政公は、名島神社を居城の守護神として篤く崇敬し、神領を寄進するなど御神徳の昂揚に努められました。
爾来庶民の信仰も一層篤く、七月二十日の大祭には遠近の庶民が陸路海路より参詣し、多くの出店が並び賑わったと伝えられています。
名島城の遺構・遺物
名島城搦手門(宗像市大穂宗生寺山門)
黒田長政公が慶長六年(一六〇一) に福岡城築城のため名島城は廃城となり、石壁楼等ことごとく福岡城に移され、同時に小さな城下町も福岡へ移りました。
この時宗生寺は小早川隆景公の菩提寺であり、黒田長政公も知行寄進、観音堂再建等の縁り深く、この名島城搦手門が宗生寺山門として移築されました。この搦手門は一本のノグルミ(化香樹) の大木で造られ、僅かに従時の名島城の名残をどどめています。
唐門(福岡県指定文化財福岡市博多区崇福寺境内)
この唐門は正面に唐破風を着けた向かい唐門といい、慶長年間に名島城から崇福寺に移築されたと伝えられています。
名島門(福岡市指定文化財福岡市中央区城内)
名島城解体の際、功臣林掃部に名島城脇門がさげ渡され、邸宅の門として使用されていました。明治の中頃、長崎の商人が買い取って長崎に移築しそうになったのを、平岡浩太郎氏が買い戻し、福岡天神の自宅に残したものです。戦後、富士ビルの建築に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫) によって福岡城址に移築され大切に保管されています。
名島城址公園
平成二十四年四月に開園したこの公園は、福岡市と地域住民、名島神社の協力のもと、名島城とこの地に点在する史跡の顕彰の為に造られました。名島城本丸があった場所とされています。ここからの眺めは博多八景の一つに数えられ、博多湾を一望できる景勝の地であります。公園の桜は枝が地を這う様に伸びていることから、臥龍桜の愛称で親しまれています。
名島城内の障壁画「梅に鵜図」 (重要文化財)
京都国立博物館所蔵
この襖絵は、雲谷等顔の作と伝えられています。
襖六両にも亙る金地の大画面に、鱗や意識が、墨一色で描かれており、彩色は雪を思わせる胡粉と、点苔の白線が樹幹に添えられるにとどまっています。冬枯れの情景が、背地の金と、雪の白と、橋場の墨の調和によって、見事に捉えられた障壁画です。